| ヒトラー 独裁者の魅力++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ヒトラー 独裁者の魅力 | |
”あまりにドイツ的、人間的な人物”アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler |
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| ■ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse | ”ドイツをめぐる文化人たち” |
| ヘッセといえば日本のドイツ文学で真っ先に思い浮かばれるほどなじみの作家だが、これは60年代から70年代にかけての流行によることが大きい。ドイツ自体においては、ヘッセは国民感情からして素直には受け容れられない複雑な歴史的事情がある。つまり、第一次世界大戦中の平和へのメッセージ以来、国民から半ば裏切り者としてそっぽを向かれてしまっているのだ。また、第二次大戦終了直後のノーベル文学賞の受賞も、ドイツでは外国での評価ほどは歓迎されたものとは言い難い。彼のタイミングの悪い言動がドイツ人の感情を悪くしたと言えよう。 第一次大戦がはじまるとヘッセ自身も志願するが、前線には派遣されずにブックセンターで兵士への良書を選定するなどの後方支援的な業務を命じられる。そんななかで、1914年11月3日づけの新チューリヒ新聞に発表された『友よ、その調子ではなく!』は好戦気分に反対し、知識人に向って呼びかけたものだが、当時戦争熱に浮かれていたドイツ国民にとってはあまりに感情をさかなでするものでタイミングが悪すぎた。さしずめ「背後の一突き」といったようなものに見えたことだろう。 「憎しみより愛の方が、怒りより理解の方が気高い。戦争よりも平和の方が高潔である。この不幸な世界大戦こそ、これまで感じていたよりももっと深く、自分たちの肝に命じなければならない。」 彼のこうした発言に耳を貸す者はドイツにはなかった。故郷では「祖国を裏切った人間」として叩かれた。翌年10月に日刊ケルン新聞ではこんな批判が掲載された。 「デーメルやブレーム、レンスのようなわが国の年配の作家たちが手に武器をとり、祖国のために進み出て喜んで自分の血を犠牲にしている。このような故国が危機の状態にあるとき、『精神の騎士』としてこれまで賞賛を浴びてきた人間が、己の卑怯さ、ずるがしこい臆病さを自慢し、祖国と法をないがしろにしたことをおもしろおかしく吹聴していると聞かされれば、誠実なドイツ人なら誰でも恥ずかしさで顔を赤らめずにはいられない。このヘルマン・ヘッセは気高いドイツ精神の騎士などではなく、祖国を失った惨めな人間だ。」 こうして彼はドイツにいられない状態に次第におかれていく。敗戦後はますます彼のような人間への憎悪が高まったことは言うまでもない。 「1916年以降、わたしは完全に孤立していた。愛国者にとってはブタ、革命家にとっては小市民だった。」と1933年に書いている。また、1916年のはじめには実父の死もあって、仕事を続けるのが困難なほどにうつ状態が進行。ユングの弟子であるヨゼフ・ベルンハルト・ラング博士による精神分析を受けた。 1919年の時点でもドイツ公使館から、平和運動的な文筆活動を中止するか、それとも戦争保護援護事務所の仕事をやめるかの選択を迫られていた。そしてこの仕事をやめると、家族とも別れる決心をする。「この年月の間、全ての市民的世界から、一般的な考えから、祖国から、家族から別れを告げようとする兆候が見えていた。」こうして、息子たちは友人に預けられたり、寄宿舎に入ったりした。情緒不安定な妻ミアは、度々治療を受ける必要があり、子供の面倒を見ることは無理だった。彼女とは離婚後、ヘッセ自身はその後二度結婚している。 ヘッセの息子たちは画家やカメラマンなどそれなりに成功しているが、やはり家族を捨てるということはどんな事情があるにせよ一般庶民的感情からはかけ離れたものであろう。あるいはヘッセ個人の精神障害的な問題があったのかもしれない。ヘッセはティチーノ州に移り、「成功を収めた市民的もの書きから、問題児、アウトサイダーになった。以来それがずっと続いている。」(自伝的備忘録) 第二次大戦後ノーベル賞の受賞によって、ヘッセの名声は世界的なものとなり彼があこがれた南国イタリアの自宅には多数の訪問客が訪れた。これ以降、ヘッセは手紙への返事や訪問客への応対に忙殺される人生を送るようになる。常にドイツ国民の意識とは裏腹な生活を送ってきたこの作家は、今でも世界的評価と比べドイツの一般的な評価は高いとは言えないのは当然かもしれない。つまり、あまりに無垢で一般庶民とかけ離れ過ぎるのである。 |
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| ★《あなたの心の鉤十字(ハーケンクロイツ)をもっと正直に認め、堕落から解放されなさい》★ | |
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